器用

医学部というのは器用な集団である。

すべからく入るのに広大な勉強が必要だし、入ってからは入るのに必要な勉強の二-三倍はしなければ留年する。したがっていきおい人々は器用にならざるを得ないのだ。

彼らは基本的になんでもやれと言われたらこなすことができる。医学部はほぼ全員が体育会系の部に所属しているため、体力もそれなりにある。手先も器用だ。金持ちが多く、顔もいいのが多い。ギリシャ神話の半神のごとき世界かもしれない。

 

しかし私はある山の山小屋にて働いた折、季節労働者たちの器用さに目を見張った。働くことにかけて彼らは素早く正確であった。これは医学生には無く、その事実に医学生自身も薄々気づいているから第一の鬱屈がある。

さらには医学生の周りも医学生なので、自分と同等かそれ以上の器用さの中で評価を受ける。それで自信を無くす。これが第二の鬱屈である。

 

医学生は自意識が高く、敗北を嫌う。それで切実に器用でありたいと願うが、患者の側から見た良き医療者の能力とは乖離することが多いようだ。医学生や医者は、患者の為というより、自意識のために勉強しており、それがたまたま結果的に人の利益になることがある。そのように人のことを見ていないから、訴訟になったり苦情を申し立てられたりするのかも知れないと思う。

淀五郎と糸を切る事

「先生、糸を切るの、ちゃんと見ていた?」

と問われたのである。

「見てはいました」

「見て『は』か」

外科の先生は苦笑した。

「先生、口で教わるとかないから、見て覚えることしかないよ」

 

淀五郎という落語がある。

淀五郎は若手の役者だがある日判官をやる役者が病気になった。

それで大星由良之助をやる役者、団蔵が淀五郎を後釜に据えたのだった。

しかしながら淀五郎は若手、判官はうまくつとまらぬ。団蔵は下手な淀五郎に愛想をつかして花道の七三から動かない。

「おめえさん、自分は判官をやる柄じゃねエって、そう思って人の判官を見ずにいたろう」

と、淀五郎を懇意にする先輩役者仲蔵が忠告するのであった。

 

実に外科の糸切りなんぞもその類いで、自分がやらないと思って見ていればやり方は覚えないのである。

万事、自分がやるかもしらん、自分がやるにはどうすればよいのかと思いながら見れば、まず良い学びと言えよう。

医学部再受験の我が杜撰な方法(真似し給うな)

私の医学部に入ったるやり方を述べる。

私一身上の方法ゆえ、人様の結果につきましては責任は一切持てませぬ。何卒あらかじめご了承ください。申し訳ございません。

それでよいと言う方のみ以下をご笑覧ください。

 

それは特別のことをせぬことと私は思う。医学部に限らず、試験に受かるこつは「皆ができる問題をちゃんと解く」ことではないかと思う。そして神道キリスト教にて神様に毎日心より頼むべし。

 

医学部に入るのに私は特殊の教科書を用い得なかった。

理科なら重要問題集、数学なら黄チャート、英語なら長文をしかと読み速読英単語にて語彙を身につける。英作文は駿台の英語構文の授業でも受けて構文をしっかり覚え、その組み合わせで書け。駿台の金がなければ構文150あたりの短文英作文を覚えるがよいのだろうか。

つまり皆のできる問題をまずは全て正答できるよう、重要問題集やチャートを解説を読んで了解し、何度も読むことで復習を成すことが私の場合肝要であった。私の知能が足りなかったゆえ、それしかできなかったのである。最後まで重要問題集と黄チャート以外やらなかった。ただし極めて何度も忘れぬよう繰り返した。問題をやれば必ず翌日、翌々日には見るだけ見返した。日付を問題の肩に書き、なかなか覚えられぬ問題は日が開かないように読み返した。いちいち解きはしない。解説を読んで理解を忘れぬようにする。解説を読んでも理解できぬときは…人に聞くしかない。

(国語は…これは本当は予備校などで確かな人に教わらねばならぬ…もし自力でやるなら、ちくま学芸文庫の新釈現代文や河合の入試精選問題集くらいしかよい解説書をしらぬ)

 

神様に祈るとは何か。

毎日近所の良い神社か良いカトリック教会に詣でて「人の為となりたいからなんとか医学部に行かせてください」と頼むことである。

これは非科学的とは言えぬ。

祈るうちに自らの中に医学部に行きたい理由が確かめられる。

確かめられれば医学部の面接でも堂々とする。

さびしい浪人時代は己の志より他には神様より頼むものはない。己という不確かなもののみ頼れば精神の平衡は危うくなることもあろう。

 

物神両方の助けを得て私は医学部に入りたり。

されど真似し給うことなかれ。確かな方法ではない。